代替不能価値。
これからの日本社会において身を守るためには、「代替不能価値」を身に付けるしかない。ここで言う代替不能価値とは、企業で言うところの「持続可能な競争優位*1」の源泉となりうるものを指す。
もちろん、何をもって持続可能な競争優位を保障する資源と見なすか、という問題があるが、ここではVaRIOフレームワークを採用する。つまり、
- 利用価値がある資源を保持すること
- その資源が貴重であること
- 他の人がマネしようとしても簡単に模倣できないこと
の三要件がすべて満たされるものを代替不能価値と呼ぼう。
例えば、英検3級は価値がある。しかし、その資格の価値は貴重とは言いがたい。よって、これは競争優位を保障しない(競争劣位)。また、簿記1級は価値がある。合格率を考えれば、それなりに貴重な資格だろう。しかし、きちんと勉強しさえすれば誰でも取得可能である。よって、これも競争優位を保障しない(持続不能な競争優位)。ことによれば、●●社にいたとか●●省出身というのは、上記の条件をすべて満たす可能性がある(持続可能な競争優位)。
では、「持続可能な競争優位」を保障する資源をどうやって手に入れるのか?会社組織内では、その企業の中だけで通用する技能というものがある。労働市場を分断して、自らが属する会社組織だけに限れば、その能力を磨くことで持続可能な競争優位を手にすることができるかもしれない。しかし、中高年になってその企業から放り出されたらどうするのか?ある企業に特化した技能は、他の企業ではまったく通用しないかもしれない*2。
とりあえず、知恵と人脈を磨くこと、は大切であろう。
リプレイスとコアのハザマで。
http://d.hatena.ne.jp/mitty/20030913#p8
リプレイス可能な人材と見なされないことで、いわゆる「超過利潤」を手にすることが出来る。
リプレイス可能人材とコア人材の二極分化への流れはもはや避けるべくも無い。とはいえ、どちらの生き方を選んだとて、それが肌に合うのなら幸せを手に入れることは間違いなくできるだろう、という確信めいたものもある。
ところで、会社はリプレイス可能人材とコア人材だけで回っているわけではない。両者を繋ぐ「ミドル」の存在が必須である。
これまでの人事制度のもとでは、「敗者復活」に相当するものが存在したため、人は自ら競争から降りるという道を選ばなかった。それゆえ、制度上比較的容易に信頼できる「ミドル」を確保することが可能であった。
しかしながら、今後、コア人材とミドルの分離を考えるようになれば、信頼できるミドルを確保する事は極めて難しくなるだろう。
そこを上手くやりくりできる企業*1が、今後、競争力を伸ばすことになるに違いない。
*1:ref: 日産の人事制度を検討せよ。
オフィスのプラス志向。
もしも、個人で同じ場所にオフィスを借りようと思ったら、家賃は20万近くするはずです。すると、会社という場所がなんだか不思議に思えてくる。入社するだけで交通至便な都心の仕事場をあてがわれ、そこをいつでも自由に使うことができるわけで。家賃を払うどころか、往復の交通費さえ支給される。机や椅子が与えられるのはもちろん、コンピュータは自由にカスタマイズして使えるし、仕事をするためであれば(あるいはそうでなくても)、電話、インターネット、コピー、ファックスすべてが使い放題、必要とあれば備品や資料まで買ってもらえます。お茶やコーヒーはいくらでも飲めるし、掃除は知らないうちに誰かがやってくれる。遠い昔、学習室の席を確保するために早朝から図書館に列をなした頃を思えば、ここは理想郷と言ってもいいくらいです。毎月生活していけるだけの給料を受け取った上で、これだけの環境を与えられるとあれば、すまじきものは宮仕え、などと口にするのもはばかられるような気もします。
たどれないリファ。
http://bx.sakura.ne.jp/~kyou/diary/archives/200309/nfreferrer.shtml
非公開アンテナ(かつ日記も非公開)から一日に何回も見ていただくというのはちょっと恐いですよ。
三者三様の立ち位置。
http://d.hatena.ne.jp/tach/20030918より
佐藤友哉はもう負けてしまって、その苦しみのあまりのたうち回っている。それは正しい生き方だ。舞城王太郎も負けながら、それでもまだその事実が受け入れられなくて、怒り狂っている。全く正しい生き方だ。 西尾維新はまだ負けていないじゃないか、という突っ込みもあるかもしれない
えーと。ここでいう舞城的にわたしは見えているのでしょうね。>id:kanryo殿