http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20040809#toMittySan

まず「キーワード空間の秩序」について。

yms-zunさんの主張の根本にあるのは、「各ユーザの求める「秩序」のレベルが違うのだから特定のユーザが考える秩序のレベルを他の人にまで押し付けるのはナンセンスである。それどころか、そもそも自然言語に秩序が存在しないのだからその部分集合たるキーワード群に秩序を期待するのは無理がある。」ということと理解しました。

確かに、秩序を前提として話を組み立てるより、そうした考えを前提として話を組み立てるほうが現実に即しているのは間違いないところといえそうです。

「キーワード空間の秩序」という言い方は、自然言語\supset規約で区切られた言語空間\supset「秩序だったキーワード空間」という構造を想定するがゆえに、規約上OKながらも「削除」が必要となるキーワードが存在するのではないか、という妄想を下敷きにしています。そして、あの言明は「規約で区切られた言語空間」=「秩序だった言語空間」と考えなければならない時期が来ているのかもしれない、という考えを表現したものでありました。「規約で区切られた言語空間」と「秩序だった言語空間」を仕切るものは、「キーワード作成ガイドライン」にあたると考えると分かりやすいと思いますが、現状ではもはやキーワード作成ガイドラインは意味を失っているという(http://d.hatena.ne.jp/mitty/20040618#p1)事実は誰もが認めざるを得ません。

「規約で区切られた言語空間」と「秩序だった言語空間」のスキマがもしもあるのならば、外側は「規約」で区切りがありますから、内側を明らかにすることによってのみ、それは見えてくるのだと思います。ゆえに、「秩序だった言語空間」の有り様*1を追求してみるのは、一概に無価値とは言えないのではないでしょうか。(もちろん、それを一歩進めて、「秩序だった言語空間」の押し付けが横行するようになるのは問題でしょうが。)

次に、「ごみ」云々の話について。

例え話の弊害は、ごく最近あった「誤爆」の件(ttp://d.hatena.ne.jp/sasada/20040807#1091847344)を持ち出すまでもなく、心に留めておかねばならないところでした。そのような言い方があまりに広まってしまったため、無頓着に用いていたのですが、確かにあまりよい言い方とは言えませんね。

世に存在する言葉のうち、本当にキーワードとして不適当なものは規約により排除されていますから、その規約の判断を通過したものに対して、「ゴミ」と断ずることは異なる価値観への不寛容として戒められるべきものでありましょう。


これまでの話についてはさほどの行き違いはないものと思います。

今までに提出された「はてなダイアリー評議会」の議題が末節に拘つたやうなものばかりなのは何故か、言い換へれば何故はてながその様な議題の選び方をしてゐるのか、そして評議会が発動されるまでの腰が重い理由は何故か。人によつては「こんなことだからはてなはダメなんだ」といふ結論に至るでせうが、私は違ひます。これは盲目的なはてなへの追従ではありません。「はてなダイアリーキーワードとはどういふ性質のものか」に対する私の見解がある程度までは正しいことの証左だと思つてゐます。

その観点に立つてみれば、ユーザーが自分の日記内でキーワードリンクを完全にコントロールすることに徹すればよいといふ考へ方を「クサイモノニフタ」と表現されることについて、甚だ心外であると言はざるを得ません。

http://d.hatena.ne.jp/mitty/20040808#p2などは、まさに「ユーザーが自分の日記内でキーワードリンクを完全にコントロールすることに徹すればよい」という考え方に基く提案でありますから、この部分において二人の間に意見の相違は存在しないように思われます。無駄な争いを避ける、という見地からは、確かにそれが一番よいのですから。

違いがあるとすれば「リンクを切ったキーワード」の扱いにおいてでしょう。誰もキーワード全体に対し興味を持たなくなってしまえば、それをよいことにしたキーワードの私物化が横行したりするやもしれません。「クサイモノニフタ」という表現はそうした事態への憂慮を示すものであります。言えば分かる人もたくさん居ますから、言わないで済ませるのはもしかしたら損失になるのかもしれません。(一方、話しかけたがゆえに泥沼という事態も十分考えられますが。)それゆえ、完全に放置しても良いものか、ということについて、確信がもてないでいるのです。

*1:これは「不完全な動詞は登録してよいか」「義務教育以前の子どもも理解できる形容詞は登録できるか」「説明が辞書よりも有意義な場合は」といった一連の線引きを通して浮かび上がるものでもあります。