誤爆は問題ではない?
http://d.hatena.ne.jp/Mattyan/20040706#p2
あのさ、どうして誤爆も楽しめないような心の小さい連中が多いわけ?
という主張に、なぜか違和感を覚えたので、その理由を考えてみます。
この主張の骨子は、
(XはYの仕組み上起こりうることである)
わたしはXを楽しんでいる。
Xを許容できない人々は心が狭いのだ。
皆もXを毛嫌いせず、わたしのように楽しむべきである。
ということになると思います。確かにそうした主張は成り立ちうるのですが、これはXに悩む人にとって何の救いにもなりません。
よく考えてみてください。
今回は、
でしたが、これが
- X:百選のバトンが「ふってくれリスト」の順序どおりに回らない
- Y:はてなダイアラー映画百選
だったとしたらどうでしょう。「百選のバトンが「ふってくれリスト」の順序どおりに回らない」と悩んでいる人に対して、「イレギュラーにバトンが渡るから百選は楽しいんじゃないか!」と言ったところで、それはその人の感情を逆なでするだけではありませんか?
そしてその事実を一番分かっているはずの人(http://d.hatena.ne.jp/Mattyan/20040607#p1)*1が、自分が当事者でないとなると他人に対してまったく同じことをするのに大きな違和感を覚えたのでした。
もちろん「Xは自分にとって問題ではない、それどころか楽しみですらある」と主張することは自由です。しかし、お分かりのようにそれはXに悩む人にとって何の解決にもなりません。
要するに、この場面で必要なのは「俺は平気だ!」と居直ることではなくて、Xを問題と考える人の身になって根気強く対話を続け歩み寄ることなのではないでしょうか。
Xは問題だと思わない、というおおらかな人が多いに越したことはないのかもしれませんが。
わたしの場合はモデレーションシステムの導入により、困る誤爆はほとんど起こらなくなりました。わたし自身は、キーワードシステムを大変高く評価しているがゆえに、はてなダイアリーを使わせていただいております。誤爆はその「高機能ゆえの弊害」であり、それをうまく抑制する方法が導入され、キーワードシステムのよい部分だけを享受できているような気がしています。よって、わたしにとって誤爆ははてなを出て行く理由にはあたりません。
参考リンク:http://d.hatena.ne.jp/gms/20040705#p5およびhttp://d.hatena.ne.jp/yoake/20040703#p1