某所より。

キリスト教を真っ向からコキ下ろしたニーチェが、じつは敬虔なクリスチャンであり、温和な神の福祉を説くトルストイが、本質的には最も肉的な異教徒だった。

人は−自己批判的である場合−とかく自分に欠けたものを欲し求めるようだ。馬鹿は利口になりたがり、利口は馬鹿になりたがる。叡智に溢れたものは野蛮人のように野放図になりたいと思い、教養の低い者は教養教養と一大事のように騒ぎ立てる。それで世の中の平均がとれていくのだろう。

高い教養は確かに望ましいことだ。だがそれが強烈な「いのち」に裏づけられなくては雪駄の皮にもならぬ。いわしの頭も生きたいわしの頭であってこそ頭の役をする。めざしの頭はもと頭であったに過ぎないのだ。(p.168)