自己責任社会の陥穽。(http://d.hatena.ne.jp/flores/20030912#p2)*3。

結果の平等は観察可能であり、したがって検証可能である。しかし、機会の平等は観察不能である。我々は、結果を見てそれを推測できるのみだ。この差異を認識しておく必要がある。

現在の日本は、結果の平等よりも機会の平等を求める社会へと変化を遂げつつある。いわゆる、日本的悪平等からの脱却、というテーマで語られる一連の議論がそれだ。

機会の平等が保障されさえすれば、あとは「個人の問題」に帰着される。しかし、例えば、ある個人が学習について強い動機付けを持つか否かが、その人の出身階層に影響されるとしたらどうだろうか?出身階層による学業成績の差異が、自己責任の名の下に正当化されてしまいはすまいか*1

日本で成果主義が上手く機能しない理由はこれと同じ構造があるからかもしれない。

*1:ref: id:mitty:20030802