年功賃金制は成果主義よりも厳しい?(http://d.hatena.ne.jp/kanryo/20030820#p2)

わたしは、年功賃金制度というのは、非常に厳しいシステムなのではないかと思っている。もし賃金が仕事の質と量で決まるものだったら、仕事に見合った分だけ給料をもらえばよい話で、それが安くてもいいなら別に問題はない。

ところが、賃金が年齢と共に上昇する、となるとそうはいかない。賃金が年齢とともに上昇するために、その上昇したコストに見合ったパフォーマンスを従業員に求めることになる。

ニワトリが先か卵が先かで言えば、賃金が先に決まり、その賃金に見合った成果を求められるという順になる。熟練したから、あるいは、パフォーマンスがあがったから高い給料を支払うのではないのだ。逆に、高い給料を払うからには、その分のパフォーマンスを上げてもらわなければ困る、と考えているのである。

上の一説は高橋伸夫『できる社員は「やり過ごす」』内の係長(主事・主任・課長代理・グループ長・チーフ)考「「泥をかぶる」係長」からのものである。

成果主義になって年功主義のときよりも給与が下がった、というのはよく聞く話である。しかしながら、上の論理が働いているとなると、それはむしろ納得できる。これまでの給与は「成果+役職に見合った働きの期待」で決まっていたものを「成果」だけにしたのだから、下がるのは当たり前なのだと。

このような年功序列システムの下では社員は絶えざる研鑽を求められる。なぜならば、必死になって年相応の力を身につけていかないといざ昇進したときに自分が困ることになるからである。このようにして社員は長期的視野に立って自分のスキルを磨くことになる。

しかし、成果主義の元では話は違ってくる。成果主義の下では、1)目標自体が近視眼的になる、2)目標として設定した以外の仕事がおろそかになる、3)自己評価と査定は一致しにくいため不満がたまる、といった問題が起こる。つまり、成果主義の下では社員の内在的な成長意欲を引出しにくいのである。

案外、成果主義よりも年功序列システムのほうが優れたパフォーマンスをあげているのかもしれない。