「夢があれば若者は働く」のか*2?

二十世紀末、日本人の将来について意識調査を行うと、決まって批判的な反応がかえってくる。「これから日本はもっとダメになる」「日本人の生活水準はこれから悪化の一途をたどるだろう」・・・。将来に希望を見出せ無い「あきらめ」に似た気分は、若者の意識の中に強く根を張っている。この無力感はいったいどこからくるものなのか?

若者も、いつかは必ず中年になり、そして高齢者となる。かつてであれば、仮に現在の状況が厳しくても、いまさえ我慢すれば将来自分も豊かになれるだろうという期待を若者は持つ事が出来た。しかし、制度や慣行の改革はその調整コストの高さゆえ<先送り>され、現在の中高年はそのままに、将来の中高年、すなわち現在の若者から厳しさを伴う改革を行おうという雰囲気が強まっている。

このような状況の中で、どんな若者が将来に希望を持てると言うのだろうか?若者が親にパラサイトする傾向が強まっているとすれば、それは若者の自立心や就業意識の低下と言った精神的な問題が原因なのでは無い。むしろそれは、現在の中高年の既得権を維持・強化しようとする社会・経済構造の産物なのである。

働く環境を改善し、ひいては生産性の向上を実現するには、中高年に対して与えられている既得権益を打破しなければ、ダメだろう。中高年の働き方を見直し、働く意識が弱くなったといつも片付けられてしまう若者にこそ働く機会を確保すること。それが本当の社会的公正なのである。

とあるエコノミストが、日本の人々を年齢と貧富で4つにセグメント分けしたことがある。それは、熟年+金持ちの「勝ち組」、熟年+貧乏の「負け犬」、若者+金持ちの「プリンス」、若者+貧乏の「挑戦者」である。

この4つ(正確には「プリンス」を除く3つ)が存在すること、については何の問題もない。なぜならば、それこそが自由主義経済の帰結だからである。

本当の問題は、そのセグメント間の移動が出来なくなることにある。つまり、親の出自がその子の行く末までも左右してしまう可能性が高くなるということに問題があるのである。

かつて日本では、賛否は有るにしろ、学歴によるメリトクラシー能力主義)が確立されていた。つまり、出自はどうあれ学歴による「生まれ変わり」が効く、というシステムがあったのである。実際、霞ヶ関で働く方々は能力により選抜されたエリートであり、そこに出自が関わる余地は無い。

しかしながら、「学歴」を通じた「生まれ変わり」システムはもはやうまくは機能しなくなっている。例えば、メリトクラシーの代表とされた東大において、東大生の親の年収の平均は1000万円を超えているということはそのことを如実に裏付けている。

そして、そのことは社会にある種の閉塞感をもたらす。

誰にでもわかりやすい栄達の道はもはや閉ざされてしまった。「本人の努力」以外の要素が、将来に大きく関わってくるとなると、運命論者的な諦めが世の中を支配しても不思議では無い (ref: 『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』)。

これを打破するためには、何が必要だろうか?

ひとつには、教育、が挙げられるだろう。ホンダやソニーが小さな町工場から始まった、ということなど、企業家精神を鼓舞するような教育を施すこと。これは「挑戦者」を鼓舞することになるだろう。

いまひとつは、社会保障の充実、が挙げられるだろう。このことを考えるためには、「窓際社員」の存在を考えて見れば良い。「窓際社員」とは、出世競争に惜しくも敗れ、不本意ながらも会社にしがみついている人々のことを指すことが多いようだが、仮に出世レースに参加しても「窓際」と言うかたちでの保険が存在することをまわりの社員に周知する意味を持つ。つまり、「挑戦者」が失敗しても、なんとかなるようにセーフティネットを社会的に整備することである。

可能性としては、専門大学院が新たな「学歴」を社会に実装し、さらに高度な学歴社会へ移行して安定する、というのも無視できない。

大学進学率が50%を超えようかという現代、もはや大学(学部)は最高学府たりえていない。ここに専門職を教育する大学院を創設し、それを栄達へのパスポートとするのであれば、これまで考えられて来たような形での、学歴を通じた「生まれ変わり」が保証されることになる*1

また、学歴に代わる「生まれ変わり」システムが確立されれば、社会階層間の流動性は確保される可能性がある。その学歴に代わる「生まれ変わり」システムと目されているのが、昨今、取沙汰されている「成果主義」である。

しかしながら、わたし自身はこれは学歴に代わる「生まれ変わり」システムたりえないと考える。

その理由は、第一に「成果主義」は企業の中に適用されるものであって、社会階層に作用するものでは決して無い、と言う点である。第二に、「成果」をどうやって「測定」するのかという点が解決されていない、という点である。第三に、企業へ入る際にも「学歴」が影響するという点である。

すなわち、ある企業で高く評価される人が転職した時に同じ待遇を受けられるか、というと現在の日本では難しいと言わざるを得ないのが現状であり、企業内の成果主義を通じて栄達を果たしてもそれは企業の内部にとどまるという懸念がある。また、ペーパーテストという客観的にもわかりやすい基準は、成果主義には存在しない。実際のところ、日本における成果主義とは「一律賃金減らし」の口実に過ぎない感がある。さらに、現在の入社試験では学歴に関わりなく応募することが可能になったが、大企業になればなるほど入り口が1)東大・京大・一橋・東工大(関東のケース)、2)早慶上智、3)その他大勢、で分かれているケースがほとんどである。これが、高学歴者に優位に働いていることは、内定者の内訳を見れば明らかである。学歴の階層化が進行していると仮定して、それに代わるシステムを求めているのに、学歴が企業にダイレクトに直結するとなると、企業内での競争を通じた選抜はエリート中のエリートを作りだすに過ぎず、問題は解決されない。

それゆえ、成果主義は学歴を代替しない。

この項を総括するに、若人が夢を持つためには、学歴であれ成果主義であれ「社会階層間の流動性の確保」するようなシステムの存在というのがキーワードになりそうであるということである。*2

*1:米国の状況を鑑みるに、法曹・医師のみならず、会計士・官僚も専門職大学院の範疇に含まれるであろう。

*2:ref: 『社会階層―豊かさの中の不平等