山田朝子=やまだないと=加賀マヒル、と、中の人の話。

ここにキーワード関係以外の話しを書かなくなって1年くらいになります。

山田朝子=やまだないと=加賀マヒル、というのはよく知られた話ですが、例えていうなれば今ここにはなかのひとの「やまだないと」的側面しか現れていないわけです。

多くのはてなダイアリーを書く人にとって、この側面の分離はカテゴリによって行われているのが通常で、カテゴリを無視して横断的に見ることでその人の人格全体が立ち現れるということになっていると思います。なかのひとはそれをカテゴリではなくブログ単位で実行しているわけです。もちろん、これも珍しいことではありません。

ただ、こうした戦略をとると更新までのハードルは高くなってしまいますね。

概念と新語の話し。

新しいコンセプトを獲得する際に、身近な例にそれを当てはめてみるというのはきわめて有効な戦略でしょう。今まで説明できなかったものが、それを用いることによりクリアに説明できるようになる、かもしれません。

ただ、意識しなければならないのはその新語の意味する概念と自分が説明したいことの概念には常に微妙なズレがあるということでしょう。ズレを0にするためは、究極的には、自分でその説明したいことの概念を表す新語を作らねばならないのです。

人の提案した概念に乗って自分のイイタイコトが言えた気になるというのは注意すべき状況ではありますが、ためしに乗っけてみることまでは拒否されるべきではないと考えます。もちろん、拒否することなど事実上誰にもできないのですけれど。


新しいコンセプトを獲得する際に、身近な例にそれを当てはめてみるというのはきわめて有効な戦略でしょう。今まで説明できなかったものが、それを用いることによりクリアに説明できるようになる、かもしれません。

ただ、意識しなければならないのはその新語の意味する概念と自分が説明したいことの概念には常に微妙なズレがあるということでしょう。ズレを0にするためは、究極的には、自分でその説明したいことの概念を表す新語を作らねばならないのです。

人の提案した概念に乗って自分のイイタイコトが言えた気になるというのは注意すべき状況ではありますが、ためしに乗っけてみることまでは拒否されるべきではないと考えます。もちろん、拒否することなど事実上誰にもできないのですけれど。


最近、某匿名掲示板にて行われる「投稿された絵に対しショートストーリーをつける」というお遊びを眺めていたのですが、スレの主が「オレの考えていた方向と違うストーリーをつけるのはやめてほしい」という風な発言をして荒れたことがありました。見ている分にはそれはカオティックで逆に味があって面白いのですが、主にとっては自分の絵やストーリーが消費され汚染されていくのはおそらく耐え難い出来事だったのでしょう。絵というアンカーがあっても、そうしたことが起こりえるのですから、ましてやコンセプトなんてものについてはリリースした人の意図どおりに育たないことは当然と考えるべきでありましょう。