http://www.iris.dti.ne.jp/~nisimaki/sekai/index2.html

橘川幸夫さんのメールマガジンをとってるんだけど、今日のはこんな内容だった。
Subject: PERIODICAL[515] 限界

昔に書いた原稿にこんなのがあった。
人間というのは、25歳まで肉体的な成長(細胞分裂)がある。
身長は原理的には25歳まで伸びる。その肉体的・自然的な限界
を感じる24歳で自殺をする人が多い。これは、肉体的限界性の
自殺である。そして、脳みそは45歳まで活発に細胞分裂すると
いう。44歳ぐらいで自殺する人も多い。これは、頭脳活動の限界
を感じて自殺するのである。三島由紀夫は45歳で死んだ。

橘川幸夫WebMagで「つながりっぱなし宣言」が
読めます。
http://www.friendlylab.co.jp/webpub/book/kitclub/

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 これを読んで思うことがあって、例えば荒井(松任谷)由美の『やさしさに包まれたなら』(映画:『魔女の宅急便』のエンディング曲)で歌われているような「子供の頃の恩寵」っていうのは、身体が成長するってことと非常に関連があるんじゃないかな、と。年々身体が大きくなっていくっていう感覚は、なにかとても世界感覚に肯定感をもたらすような気がする。ゆえに子供はいつも何故だか嬉しそうなんじゃないだろーか。

 身体の成長は万人に訪れるので誰でもこの恩寵を受けるが、ここで言う「25歳の壁」によって第一フェーズを終える。ここにひとつハードルがあるように思う。身体の成長は黙っていても訪れるが、頭脳的な成長というのは自動的に訪れるものではない。なにかしら、自分から動いていかなくては得られないところがある。もっとも、「仕事をやらなくてはならない」などで半自動的に為していくこともあるだろうけど。

 頭脳的な成長には2種類あって、内的な方向と外的な方向があるように思う。内的な方向というのは自分の精神的成長であって人生観や世界観の発展、外的な方向というのは人間関係である。人間関係というのも一種の頭脳の成長であるような気がする。人間関係というのは、仮想的に頭脳をシェアするということではないか。この両方の方向を人は持っているものであるが、人によってその割合は違ってくるだろう。内向的な人もいれば、外向的な人もいる。

 さて、ここまで書いてきて、では頭脳的な成長の限界を迎えたらどうするのか、という問題がある。「45歳の壁」、第二のハードルである。ここで恩寵は消滅してしまうのか?

 「45歳の壁」以降のフェーズは、「次世代を育てる」ということをするフェーズだとにしまきは思う。ある意味世界からの恩寵は無くなるかもしれないが、今度は「与える」という役割を担うことになる。「与える」ということは、与えられる者にとってはもちろんのこと、与える者それ自身にとっても素晴らしいものであって、これはさらなる意味での恩寵でもある。「与えることが出来る役割」というものを与えられた、のである。