「数学科の立場はUNIXに似ている」

http://www.mars.dti.ne.jp/~kshara/diary/200203c.htmlより

単純過ぎ、または難し過ぎ、頑固で、 ユーザーフレンドリーさに欠け、インターフェースが酷く、 時代遅れで役に立たない、 などなどは、 これは数学科(およびその卒業生)とUNIXに共通の悪口である。 M. Gancarz の「UNIXという考え方 ― その設計思想と哲学」 の受け売りだが、 UNIXはその数十年前の誕生以来、 常に「UNIXはこれこれの面で○○○OSにとうていおよばない」 (○の中にはMultics, VMS, MS-DOS, Windows, MacOSとか何でも) と言われ続けてきたが、 一方でしぶとく生き残りますます広く、深く用いられてきた。 それは何故か。その理由はまさにそれが「劣っているから」であ る。 劣るものは、正しいものや、優れたものや、そしてもちろん間違っているものより、生き残り易い。

私が思うに「優れている」のは、たいていの場合、 非常にファインにチューニングされていることの言い換えに他ならない。 しかし、それはシステムが より巨大化し、より複雑になり、 より硬直化して、自由を失なっていることでもある。 それは非常に困ったことではないか。 逆に「劣って」いるが故に、 柔軟で、単純で、基本的で、根本的で、 ラディカルであり続けられるという価値がある。 数学科とかその卒業生はそのようなものではないか、 そうあってほしい、と言うのが私の意見である。

さらに言えば、この両者は、 最近、同じように変質しつつあることでも似ている。 UNIXは、優しく、使い易く、すぐに役に立ち、 学者とテッキーのおも ちゃではない、「まともな」目的に使える、 そんなオトナのOSにしようという流れである。 ブライアン・カーニハンはそのような精神を失なったもどきたち を、 crappy UNIXes と呼んでいるようだ。 数理科学科(の卒業生)が crappy数学科(の卒業生)にならないことを祈りたい。

例えば、MS社のWordなどは文書を作成することに特化したソフトウェアである。これは洗練されているが、肥大化しすぎていて、文章を書くことには向かない。これに対し、秀丸などのテキストエディタは文章を書くことというプリミティブならがも本質的な部分に根ざしたソフトウェアである。これはワープロと比較して、「「劣って」いるが故に、 柔軟で、単純で、基本的で、根本的で、 ラディカルであり続けられるという」位置を占めているのである。

振り返ってみるに、経済学はどちらに当たるだろうか?